ヘラクレスの十二の課役 4 ― 2022年05月09日
(八) エリマントス山の野猪(いのしし)
ヘラクレスがケリネヤの牝鹿(めじか)を生捕(いけど)って帰ると、エウリステウスは直(すぐ)に追掛けて第四の命令を出した。それはアルカヂヤのエリマントス山中に住む野猪(いのしし)を生捕って来いということであった。
ヘラクレスはエリマントス山の麓(ふもと)へ着いて、林を分けて上(のぼ)って行く途中で、偶然この山中に住むフォロスという半人半馬(ケンタウル)に会い、その洞(ほら)へ案内されて、様々の饗応(きょうおう)を受けた。フォロスの洞には、往時(むかし)酒神(しゅしん)ヂオニソスが、この一族に授けた一つの酒瓶(さかがめ)があった。その時ヂオニソスは、この一族に向って言うには、
「今後(いまから)四百年の後、英雄ヘラクレスがこの山を訪れることがある。その時には、全種族の会合を催(もよお)して、この酒瓶を開(ひら)くがよい。併(しか)しその時までは決してこの瓶(かめ)を開いてはならぬ。」
と。この時から、酒瓶はこの山中の半人半馬(ケンタウル)族の共有物として、この洞の奥に久しく保存されて来たのである。
フォロスは獣の肉を炙(あぶ)ってこの珍客を歓待(もてな)したが、ヘラクレスから飲料(のみもの)を所望された時、彼は不図(ふと)この酒瓶の事を思い出した。
「この洞の奥に一個(ひとつ)の酒瓶があります。」とフォロスが言った。「けれどもこれはむかしヂオニソスが我々の一族に預けたもので、私の一存では開けることがならないのです。」
「どうです、思い切って開けて見たら?」とヘラクレスが言った。「若(も)し故障(こしょう)が出たら、私が引請(ひきう)けて、あなたに御迷惑は掛けないが。」
人の好(い)いフォロスはこう言われて、押切(おしき)って謝絶(ことわ)るだけの力がなく、とうとう洞の奥から持出(もちだ)して来て、震える手で酒瓶の封を切った。
フォロスが酒瓶の口を開いた時、この年を経た、稀代(きたい)の酒の香りは、洞の口から立騰(たちのぼ)って、忽(たちま)ち全山に充ち拡がった。半人半馬(ケンタウル)らはその香りを嗅ぐや否や、餌に集まる獣のように、八方からフォロスの洞へ駆けつけて来る。彼等は或(あるい)は巨岩を抱え、或は松の大木を振りかざして、フォロスの洞を取り囲んで、口々に彼の違約を罵(ののし)りつつ、ヂオニソスの酒瓶を奪おうとするのであった。
ヘラクレスは弓を執(と)って、曳(ひ)きつめ、曳きつめ、敵を目蒐(めが)けて射かけるうちに、敵はその弓勢(ゆんぜい)に当りかねて、多数の死者を遺(のこ)して山を逃げ下(くだ)り、ヘラクレスの師であったカイロンの洞へ逃げ込んで行く。ヘラクレスは逃げる敵に追い迫(せま)って、毒箭(どくや)を射かけ、半人半馬(ケンタウル)の一族を殆(ほと)んど全滅させたが、その時一個(ひとり)の半人半馬(ケンタウル)の腕を射貫(いぬ)いた最後の箭(や)が、図(はか)らずカイロンの膝へ落ちた。と見る間(ま)に、怖ろしい毒は、火のようにこの老半人半馬(ろうケンタウル)の血管を駆け廻(めぐ)って、側(そば)で見ていられない程の苦しみをさせた。カイロンが多年(たねん)研究した医術も、この毒には施(ほどこ)す術(すべ)がなく、恐ろしい苦しみは刻々に募(つの)って行ったが、尚(なお)その上の不幸には、カイロンは不老不死の生命(いのち)を有(も)っていたので、苦しみながらも生命(いのち)を続けて行かなければならなかった。
「こんな苦しみをして生きているよりも、死んだ方がましだ。」とカイロンは苦しい息の下から叫んだ。「誰かわしの不老不死の生命(いのち)を引受(ひきう)けて、楽に死なして呉(く)れるものはないか?」
「御安心なさい!」とヘラクレスが声に応じて答えた。「私が必ず死の使(つかい)を送って、あなたの苦しみを軽くするように致しましょう。」
こうカイロンに約束して、ヘラクレスは再び山を上(のぼ)って、フォロスの洞(ほら)へ帰って見ると、この親切な半人半馬(ケンタウル)も、同じように洞の中で死んでいた。フォロスはヘラクレスが山を下(くだ)って行った後(あと)で、同族の死骸を葬(ほうむ)りながら、ヘラクレスの箭(や)の不思議な威力に感心して、一つの死骸から一本の箭を抜き取って、つくづくと眺めているうちに、思わず指の間を辷(すべ)らして、足の上へ取落(とりおと)したので、毒は見る見る全身に廻って、彼の帰りをも待たずに死んでしまったのであった。
こんな思わぬ出来事のために、大分暇(ひま)を潰した後(のち)、ヘラクレスは再び山上(さんじょう)へ分け登って、野猪(いのしし)を林の中から狩り出し、山巓(さんてん)の雪谿(せっけい)を追廻(おいまわ)した末(すえ)、生捕(いけど)りにしてエウリステウスの前へ運んで来た。その時(とき)王は怖ろしい怪獣の姿を見て、余りの恐ろしさに、大瓶(おおがめ)の中へ隠れていたが、ヘラクレスは王を尋(たず)ねて瓶の側(そば)へ来ると、いきなりその中へ野猪(いのしし)を投げ込もうとしたので、臆病な王は肝を潰して、ヘラクレスの慈悲を願ったと伝えられている。