第七十段 ― 2022年02月22日
何かを探していたら、ちょっと面白い物が見つかった。
「私の最初の翻訳」
丸善の二階はまだ狭く、外国の本なども今のように沢山は来ていなかった。私はおりおりそこに行って、なるたけ安い本をさがして買ったり、欲しい本を注文したりした。ツルゲネフの『親々と子供』、ドウデエの『流竄王(るざんおう)』、ある日ふとトルストイの『コサックス』の五十銭本、海辺叢書の一冊を其処にさがし出したが、それを呼んだ時には、夥(おびただ)しく感動させられた。
丁度内田君の『罪と罰』の最初の一巻が公けにされた頃で、その世評は嘖々(さくさく)としてきこえていたが、ラスコリニコフの心理描写よりもかえって此方(こちら)の方が好いように私には思われた。私はE君にその話をした。
と、E君はある日、
「一つ翻訳して見たまえ、H書店の翻訳の叢書の中に入れても好いって言う話だから……。」
「じゃ、やって見よう。」
私は喜んで引受けた。
その叢書は『ロビンソン漂流記』や『ドン キホオテ』などの出る叢書であった。恐らくH書店の主人は、丁度日清戦争時代であったので、コサックスという名に惚(ほ)れて、トルストイの傑作をコサック騎兵のことでも書いたものと思ったのであろう。それで、無名の一文学書生の翻訳をも引受けようと言ったのであろう。
しかし私にはそんなことはどうでもよかった。そういうすぐれた作品を翻訳し得るのは嬉しいと思った。その夏は丁度私は柳田君[引用者注 柳田國男だと思う]などと日光の寺に行っていたが――そこで日清談判破裂の騒がしい号外の声を聞いたが、帰って来ると、丁度好い塩梅(あんばい)に、裏の大きな二階屋が貸屋になっていたので、そこに机を持って行って、そして夏中一生懸命にその翻訳にその翻訳に従った。
勿論その時分もやはり歴史家の二階に写字には通っていたので、夜と日曜と朝としかそれをやっているわけに行かなかった。それに、語学は不完全だし、翻訳も初めてなので、初めはとても出来そうには思われなかった。しかしそれもどうやらこうやら曲りなりにも漕ぎ付けた。
従ってその翻訳は滅茶苦茶であったに相違なかった。それに、その台本にした本も、省略の多いものであった。
しかしその奥の二階での仕事は今でもはっきりと私の記憶に残っている。栽込(うえこみ)の深い庭に夜遅く月が登って、それが葉間から洩れて来たり、西日が暑く窓からさし込んで来たり、虫の音(ね)が湧くようにあたりに繁くきこえたりした。ランプが遅くまで二階についているのが外から見えた。
そこで私はオレニンの苦悶を考えたり、ルカシカの生活を思ったり、ヂェロチカという老人の自然に対する感慨を思ったりした。カウカサスの不思議な生活は、この極東の一文学青年の空想と煩悶とに雑(まじ)り合った。
で、三月かかって完成した。紙数六百余枚。
それを清書して、E君から紹介書を貰って、私はそれをH書店に持って行った。H書店もまだその時分はそう大して大きな書肆ではなかった。本石町(ほんごくちょう)から本町(ほんちょう)へはもう移っていたけれども、編輯局(へんしゅうきょく)も何も出来ず、主人の新太郎氏は、表の通に面した店の隅の帳場に坐っていた。新太郎氏もまだその頃は若かった。
E君の手紙が添っていたので、新太郎氏は私をその帳場のところへと引見した。髪の長い蒼白い顔をした私を、いやにじろじろと神経的に人の顔を見るオドオドした一文学青年を。
小僧が本を運んで来た。
新太郎氏は、厚い私の翻訳の原稿をバラバラと明けて見て、
「コサックのことはかなり詳しく書いてありますか。」
「え。」
また、開けて見て、「一体、あの叢書は、あんまり売れんで、あとはどうしようかと思っているんだが、……これは、まア、しかしお頼みしたのだから、出版するつもりですけれど……あれは、一冊三十円ずつになっているんだが……。」
六百枚の翻訳――三十円。しかし私は別に苦情は言わなかった。私はやがて急いでそこから出て来た。で、あのトルストイの『コサックス』の拙(まず)いひどい翻訳が出た。
田山花袋『東京の三十年』より。原著の刊行は1917(大正6)年。ドーデ(Alphonse Daudet、1840年-1897年)の『パリの三十年(Trente ans de Paris)』(1888年)に倣ったものらしい。題に「最初の」とあるが、後に何とフローベールの長篇『ボヴァリー夫人(Madame Bovary)』(1857年)も訳しているらしい(ウィキペディア情報)。
単なる「蒲団フェチの変なおじさん」では無かったようだ。
……それにしても、何を探していたんだっけ……。