第六十二段2022年01月28日

『わん』

或冬の日の暮、保吉(やすきち)は薄汚いレストランの二階に脂臭(あぶらくさ)い燒パンを齧(かじ)つてゐた。彼のテエブルの前にあるのは龜裂(ひび)の入つた白壁だつた。其處には又斜(はす)かひに、「ホツト〔あたたかい〕サンドウヰツチもあります」と書いた、細長い紙が貼りつけてあつた。(これを彼の同僚の一人は「ほつと暖いサンドウヰツチ」と讀み、眞面目に不思議がつたものである。)それから左は下へ降りる階段、右は直(すぐ)に硝子窓だつた。彼は燒パンを齧りながら、時々ぼんやり窓の外を眺めた。窓の外には往來の向うに亞鉛(トタン)屋根の古着屋が一軒、職工用の青服だのカアキ色のマントだのをぶら下げてゐた。
その夜學校には六時半から、英語會が開かれる筈になつてゐた。それへ出席する義務のあつた彼はこの町に住んでゐない關係上、厭でも放課後六時半迄はこんなところにゐるより仕かたはなかつた。確か土岐哀果(ときあいくわ)氏の歌に、――間違つたならば御免なさい。――「遠く來てこの糞のよなビフテキをかじらねばならず妻よ妻よ戀し」と云ふのがある。彼は此處へ來る度に、必ずこの歌を思ひ出した。尤も戀しがる筈の妻はまだ貰つてはゐなかつた。しかし古着屋の店を眺め、脂臭い燒パンをかじり、「ホツト〔あたたかい〕サンドウヰツチ」を見ると、「妻よ妻よ戀し」と云ふ言葉はおのづから脣に上つて來るのだつた。
保吉はこの間も彼の後ろに、若い海軍の武官が二人、麥酒(ビイル)を飮んでゐるのに氣がついてゐた。その中の一人は見覺えのある同じ學校の主計官だつた。武官に馴染みの薄い彼はこの人の名前を知らなかつた。いや、名前ばかりではない。少尉級か中尉級かも知らなかつた。唯彼の知つてゐるのは月々の給金を貰ふ時に、この人の手を經ると云ふことだけだつた。もう一人は全然知らなかつた。二人は麥酒の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云ふ言葉を使つた。女中はそれでも厭な顏をせずに、兩手にコツプを持ちながら、まめに階段を上り下りした。その癖保吉のテエブルへは紅茶を一杯賴んでも容易に持つて來てはくれなかつた。これは此處に限つたことではない。この町のカフエやレストランは何處へ行つても同じことだつた。
二人は麥酒を飮みながら、何か大聲に話してゐた。保吉は勿論その話に耳を貸してゐた訣(わけ)ではなかつた。が、ふと彼を驚かしたのは「わんと云へ」と云ふ言葉だつた。彼は犬を好まなかつた。犬を好まない文學者にゲエテとストリンドベルグとを數へることを愉快に思つてゐる一人だつた。だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼つてゐ勝ちな、大きい西洋犬を想像した。同時にそれが彼の後ろにうろついてゐさうな無氣味さを感じた。
彼はそつと後ろを見た。が、其處には仕合せと犬らしいものは見えなかつた。唯あの主計官が窓の外を見ながら、にやにや笑つてゐるばかりだつた。保吉は多分犬のゐるのは窓の下だらうと推察した。しかし何だか變な氣がした。すると主計官はもう一度、「わんと云へ。おい、わんと云へ」と云つた。保吉は少し體をねぢ曲げ、向うの窓の下を覗いて見た。まづ彼の目にはひつたのは何とか正宗の廣告を兼ねた、まだ火のともらない軒燈だつた。それから卷いてある日除けだつた。それから麥酒樽の天水桶の上に乾し忘れた儘の爪革(つまかは)だつた。それから、往來の水たまりだつた。それから、――あとは何だつたにせよ、何處にも犬の影は見なかつた。その代りに十二三の乞食が一人、三階の窓を見上げながら、寒さうに立つてゐる姿が見えた。
「わんと云へ。わんと云はんか!」
主計官は又かう呼びかけた。その言葉には何か乞食の心を支配する力があるらしかつた。乞食は殆ど夢遊病者のやうに、目はやはり上を見た儘、一二歩窓の下へ歩み寄つた。保吉はやつと人の惡い主計官の惡戲(あくぎ)を發見した。惡戲?――或は惡戲ではなかつたかも知れない。なかつたとすれば實驗である。人間は何處迄口腹(こうふく)の爲に、自己の尊嚴を犧牲にするか?――と云ふことに關する實驗である。保吉自身の考へによると、これは何も今更のやうに實驗などすべき問題ではない。エサウは燒肉の爲に長子權(ちやうしけん)を抛(なげう)ち、保吉はパンの爲に教師になつた。かう云ふ事實を見れば足りることである。が、あの實驗心理學者は中々こんなこと位では研究心の滿足を感ぜぬのであらう。それならば今日生徒に教へた、De gustibus non est disputandum である。蓼食(たでく)ふ蟲も好き好きである。實驗したければして見るが好い。――保吉はさう思ひながら、窓の下の乞食を眺めてゐた。
主計官は少時(しばらく)默つてゐた。すると乞食は落着かなさうに、往來の前後を見まはし始めた。犬の眞似をすることには格別異存はないにしても、さすがにあたりの人目だけは憚つてゐるのに違ひなかつた。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顏を出しながら、今度は何か振つて見せた。
「わんと云へ。わんと云へばこれをやるぞ。」
乞食の顏は一瞬間、物欲しさに燃え立つたやうだつた。保吉は時々乞食と云ふものにロマンテイツクな興味を感じてゐた。が、憐憫とか同情とかは一度も感じたことはなかつた。もし感じたと云ふものがあれば、莫迦(ばか)かうそつきかだとも信じてゐた。しかし今その子供の乞食が頸(くび)を少し反らせた儘、目を輝かせてゐるのを見ると、ちよいといぢらしい心もちがした。但しこの「ちよいと」と云ふのは懸け値のないちよいとである。保吉はいぢらしいと思ふよりも、寧ろさう云ふ乞食の姿にレムブラント風の效果を愛してゐた。
「云はんか? おい、わんと云ふんだ。」
乞食は顏をしかめるやうにした。
「わん。」
聲は如何にもかすかだつた。
「もつと大きく。」
「わん。わん。」
乞食はとうとう二聲鳴いた。と思ふと窓の外へネエベル・オレンヂが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好い。乞食は勿論オレンヂに飛びつき、主計官は勿論笑つたのである。
それから一週間ばかりたつた後、保吉は又月給日に主計部へ月給を貰ひに行つた。あの主計官は忙しさうにあちらの帳簿を開いたり、こちらの書類を擴げたりしてゐた。それが彼の顏を見ると、「俸給ですね」と一言云つた。彼も「さうです」と一言答へた。が、主計官は用が多いのか、容易に月給を渡さなかつた。のみならずしまひには彼の前へ軍服の尻を向けた儘、何時までも算盤(そろばん)を彈いてゐた。
「主計官。」
保吉は少時(しばらく)待たされた後、懇願するやうにかう云つた。主計官は肩越しにこちらを向いた。その脣には明らかに「直(すぐ)です」と云ふ言葉が出かかつてゐた。しかし彼はそれよりも先に、ちやんと仕上げをした言葉を繼いだ。
「主計官。わんと云ひませうか? え、主計官。」
保吉の信ずるところによれば、さう云つた時の彼の聲は天使よりも優しい位だつた。


芥川龍之介『保吉の手帳から』より。

「皮肉屋」芥川の真面目といった感がある。
……べつに昨今の「補助金」「助成金」「給付金」「生活保護」などの事情を意識したわけでは無い。為念。