第二十六段 ― 2021年10月14日
地球はまるし
我々の住める地は、常に居すわりて、どこまでも平たきものゝ如く見ゆれど、その實は然らず。形は、橙(ダイダイ)の如くまるく、且つ、空間に懸りて、絶えず回轉す。
試に、海岸に立ちて、雙眼鏡にて、出版する船を見よ。遠くなるにつれて、船躰先づ隱れ、帆の下部隱れ、遂には、その上部も亦た、隱るべし。又、沖より、港に入る船を見よ。初めのうちは、帆の上部のみ見え、やゝありて、その下部も見えはじめ、遂には、船躰までも見ゆるに至るべし。地球が、平たきものならば、船は、どこまでも同じ樣に見ゆべきに、然らざるは、其のまるき證據なり。第一圖を檢せよ。
又、或港より出帆して、限りなく、西の方へ航海す、と思へ。地球が、平たきものならば、船は、進むにつれて、もとの港に遠ざかるべき筈なれど、然らず。實際は、限りなく西行すれば、船は、遂に、東なる、もとの港に歸り來べし。東へ行くも、南へ行くも、北へ行くも同樣の結果を見ん。これまた、地球がまるき故なり。地球一周の状を、上の圖によりて、さとるべし。
地、實に平たくば、いづこかに、端のあるべき筈なり。然るに、未だ曾て、これを見出しゝ者なし。端なき一證にあらずや。既に、端無しとすれば、地面は、限りなく續きたるか。然らば、日月は、いづこより出入するぞ。平たしとすれば、解すべからざるにあらずや。
地球が球形なる由は、これ等の理によりて、ほゞ想像するに足るべし。
これも仁和寺の…じゃなくて、既出の『國語讀本 高等小學校用』所収。原文には2点の図版があるが、著作権がどうなっているのか不明なので割愛した。
漱石の『吾輩は猫である』に「巨人、引力」という文章が出てくる(二章)。珍野苦沙彌先生によれば「一寸うまい文章」だそうだが、英語の「第二讀本」にある例文とのこと。内容が「語学」というより「科学」の範疇に属するという点で共通している。まあ、学習教材としては興味深くて効率が良いとも言える。
我々の住める地は、常に居すわりて、どこまでも平たきものゝ如く見ゆれど、その實は然らず。形は、橙(ダイダイ)の如くまるく、且つ、空間に懸りて、絶えず回轉す。
試に、海岸に立ちて、雙眼鏡にて、出版する船を見よ。遠くなるにつれて、船躰先づ隱れ、帆の下部隱れ、遂には、その上部も亦た、隱るべし。又、沖より、港に入る船を見よ。初めのうちは、帆の上部のみ見え、やゝありて、その下部も見えはじめ、遂には、船躰までも見ゆるに至るべし。地球が、平たきものならば、船は、どこまでも同じ樣に見ゆべきに、然らざるは、其のまるき證據なり。第一圖を檢せよ。
又、或港より出帆して、限りなく、西の方へ航海す、と思へ。地球が、平たきものならば、船は、進むにつれて、もとの港に遠ざかるべき筈なれど、然らず。實際は、限りなく西行すれば、船は、遂に、東なる、もとの港に歸り來べし。東へ行くも、南へ行くも、北へ行くも同樣の結果を見ん。これまた、地球がまるき故なり。地球一周の状を、上の圖によりて、さとるべし。
地、實に平たくば、いづこかに、端のあるべき筈なり。然るに、未だ曾て、これを見出しゝ者なし。端なき一證にあらずや。既に、端無しとすれば、地面は、限りなく續きたるか。然らば、日月は、いづこより出入するぞ。平たしとすれば、解すべからざるにあらずや。
地球が球形なる由は、これ等の理によりて、ほゞ想像するに足るべし。
これも仁和寺の…じゃなくて、既出の『國語讀本 高等小學校用』所収。原文には2点の図版があるが、著作権がどうなっているのか不明なので割愛した。
漱石の『吾輩は猫である』に「巨人、引力」という文章が出てくる(二章)。珍野苦沙彌先生によれば「一寸うまい文章」だそうだが、英語の「第二讀本」にある例文とのこと。内容が「語学」というより「科学」の範疇に属するという点で共通している。まあ、学習教材としては興味深くて効率が良いとも言える。
あとは、指導者(教員)の使い方次第であろう。
第二十七段 ― 2021年10月15日
熊野(ユヤ)
むかし、平家盛んなりし頃、大將宗盛(ムネモリ)の召使に、熊野(ユヤ)といふ、心だてやさしき女ありけり。或年の春、國もとの母、重病の由、言ひおこしければ、看病の爲め、身の暇賜はりたし、と願ひけれど、花見の折に、用あればとて、許されざりき。其のうちに、使、又來りて、母の命、今にも危し、と傳言す。熊野は、心も狂ふばかり、氣をもみけり。
折しも、宗盛召しければ、參りけるに、「けふは、天氣よければ、花見にゆくべし。準備して、供せよ。」と言ふ。「かしこまりぬ。」と答へけれども、つらさに、打ち萎れゐたり。
宗盛、其の顏色の、常とちがふを見て、「如何にしたるぞ。」と問ふ。熊野、恐る恐る、「母の病重りて、命危ければ、先頃も、願ひし通り、何卒、御暇賜はりたし。」といふ。宗盛は、きゝもはてず、「けふの花見すまば、隨意にせよ。只一日待てぬこともあらじ、ともかくも供せよ。」といひて、車にて出かけぬ。
據なく、車につきて、出でけるが、熊野は、途々思ふ樣、「花は、春くれば、又咲くものゆゑ、散ればとて、惜しからねど、二つなきものは、人の命なり。命の絲は、一たびちぎるれば、二たびとは、つなぎ難し。なさけなや、此の世にては、もはや、母樣に逢はれぬか。」と、人知らぬ涙にむせびけり。
さるほどに、宗盛の車は、清水(キヨミヅ)寺に着きぬ。廣やかなる境内も、うづまるばかりに咲き亂れたるしだれ櫻、一重櫻など、美しく、今を盛りの風情、譬へんに物なし。宗盛は、盃をとりて、此のけしきをながめ、腰元に、舞ひ歌はせて、樂しみけるが、はては、熊野にも、舞へ、といひつく。熊野は、かなしさに、舞ひ歌ふ氣勢はなけれど、主人のいひつけゆゑ、是非なく、
「いかにせん、都の春も 惜しけれど、
なれしあづまの 花や散るさん。」
と、母の病氣の、旦夕にせまれる由をほのめかしつゝ、舞ひければ、聽くもの、皆、あはれがりて、泣きけり。
思ひやり薄き宗盛も、不便と感じてや、即座に、暇を與へければ、熊野は、取るものも取りあへず、その場より、旅立ちして、あづまの母のもとへ歸りけり。
例によって『國語讀本 高等小學校用』所収。
原話は『平家物語 卷十』より「海道下(かいどうくだり)」の場面だそうである。能や箏曲などに翻案されているらしい。「歌舞音曲が人の心を動かす」というのは洋の東西、鶴屋の…じゃなくて球の南北を問わず、時代を超えて普遍的なものがあるようだ。例によって、時の権力者に利用(悪用?)される場合もままあるが。
なお「例によって」とは、「屡を自乘した程の度合を示す語」(『吾輩は猫である 四』)。
むかし、平家盛んなりし頃、大將宗盛(ムネモリ)の召使に、熊野(ユヤ)といふ、心だてやさしき女ありけり。或年の春、國もとの母、重病の由、言ひおこしければ、看病の爲め、身の暇賜はりたし、と願ひけれど、花見の折に、用あればとて、許されざりき。其のうちに、使、又來りて、母の命、今にも危し、と傳言す。熊野は、心も狂ふばかり、氣をもみけり。
折しも、宗盛召しければ、參りけるに、「けふは、天氣よければ、花見にゆくべし。準備して、供せよ。」と言ふ。「かしこまりぬ。」と答へけれども、つらさに、打ち萎れゐたり。
宗盛、其の顏色の、常とちがふを見て、「如何にしたるぞ。」と問ふ。熊野、恐る恐る、「母の病重りて、命危ければ、先頃も、願ひし通り、何卒、御暇賜はりたし。」といふ。宗盛は、きゝもはてず、「けふの花見すまば、隨意にせよ。只一日待てぬこともあらじ、ともかくも供せよ。」といひて、車にて出かけぬ。
據なく、車につきて、出でけるが、熊野は、途々思ふ樣、「花は、春くれば、又咲くものゆゑ、散ればとて、惜しからねど、二つなきものは、人の命なり。命の絲は、一たびちぎるれば、二たびとは、つなぎ難し。なさけなや、此の世にては、もはや、母樣に逢はれぬか。」と、人知らぬ涙にむせびけり。
さるほどに、宗盛の車は、清水(キヨミヅ)寺に着きぬ。廣やかなる境内も、うづまるばかりに咲き亂れたるしだれ櫻、一重櫻など、美しく、今を盛りの風情、譬へんに物なし。宗盛は、盃をとりて、此のけしきをながめ、腰元に、舞ひ歌はせて、樂しみけるが、はては、熊野にも、舞へ、といひつく。熊野は、かなしさに、舞ひ歌ふ氣勢はなけれど、主人のいひつけゆゑ、是非なく、
「いかにせん、都の春も 惜しけれど、
なれしあづまの 花や散るさん。」
と、母の病氣の、旦夕にせまれる由をほのめかしつゝ、舞ひければ、聽くもの、皆、あはれがりて、泣きけり。
思ひやり薄き宗盛も、不便と感じてや、即座に、暇を與へければ、熊野は、取るものも取りあへず、その場より、旅立ちして、あづまの母のもとへ歸りけり。
例によって『國語讀本 高等小學校用』所収。
原話は『平家物語 卷十』より「海道下(かいどうくだり)」の場面だそうである。能や箏曲などに翻案されているらしい。「歌舞音曲が人の心を動かす」というのは洋の東西、鶴屋の…じゃなくて球の南北を問わず、時代を超えて普遍的なものがあるようだ。例によって、時の権力者に利用(悪用?)される場合もままあるが。
なお「例によって」とは、「屡を自乘した程の度合を示す語」(『吾輩は猫である 四』)。
第二十八段 ― 2021年10月16日
ねずみのそーだん
ある時、ねずみのおやが、子ねずみをあつめて、いふには、
「このいへには、猫といふ、おそろしいけものがゐて、ふいに出てきて、われわれをとってくふゆゑ、すこしのまも、ゆだんができぬ。ゆふべも、友だちの大ねずみがくはれた。なにかその猫めをふせぐ、よいくふーはあるまいか。」といひました
子ねずみどもは、なにもよいくふーがつかぬ故、だまってゐました。そのうち、一ぴきの子ねずみがいひますに、
「その猫めのくびに、大きなすゞをつけておいたらば、あるく度に、ちりんちりんと、おとがする故、猫めのきたのが、すぐにしれて、かくれるにも、にげるにも、つごーが、ようございませう。」といひました。
皆々、なるほど、と、かんしんしましたが、たゞ、猫のくびに、すゞをつけにゆくものがない。
どのねずみも、どのねずみも、私が、つけにゆかう、とはいはぬ。それ故、このそーだんは、むだになってしまひました。
『国語讀本 尋常小學校用』(『高等小学校用』の姉妹篇)より。少し気分を変えたつもりだが、五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)かも知れない。
「イソップ寓話」として知られるが、少なくとも手許の文献では「イソップ」には無く「ラ・フォンテーヌ寓話集」にあった。いずれにせよ「寓話(fable)」には違いないし、ラ・フォンテーヌ自身が序文の中で、イソップをはじめ先人の作から色々といただいた(?)と述べている。
現在でも、「言う人は多いが行う人は皆無」という実例は枚挙に遑がない。
…まぁ、下手に実行しようとして「収容所送り」になったり「暗殺」されたりしてはたまらないが。
ある時、ねずみのおやが、子ねずみをあつめて、いふには、
「このいへには、猫といふ、おそろしいけものがゐて、ふいに出てきて、われわれをとってくふゆゑ、すこしのまも、ゆだんができぬ。ゆふべも、友だちの大ねずみがくはれた。なにかその猫めをふせぐ、よいくふーはあるまいか。」といひました
子ねずみどもは、なにもよいくふーがつかぬ故、だまってゐました。そのうち、一ぴきの子ねずみがいひますに、
「その猫めのくびに、大きなすゞをつけておいたらば、あるく度に、ちりんちりんと、おとがする故、猫めのきたのが、すぐにしれて、かくれるにも、にげるにも、つごーが、ようございませう。」といひました。
皆々、なるほど、と、かんしんしましたが、たゞ、猫のくびに、すゞをつけにゆくものがない。
どのねずみも、どのねずみも、私が、つけにゆかう、とはいはぬ。それ故、このそーだんは、むだになってしまひました。
『国語讀本 尋常小學校用』(『高等小学校用』の姉妹篇)より。少し気分を変えたつもりだが、五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)かも知れない。
「イソップ寓話」として知られるが、少なくとも手許の文献では「イソップ」には無く「ラ・フォンテーヌ寓話集」にあった。いずれにせよ「寓話(fable)」には違いないし、ラ・フォンテーヌ自身が序文の中で、イソップをはじめ先人の作から色々といただいた(?)と述べている。
現在でも、「言う人は多いが行う人は皆無」という実例は枚挙に遑がない。
…まぁ、下手に実行しようとして「収容所送り」になったり「暗殺」されたりしてはたまらないが。
なお、「いふ」「くふ」「さう」「せう」などの横に長音記号が小書きされている。と言うことは、児童に読み方を習得させるため長音記号を使用していたのかも知れない。
第二十九段 ― 2021年10月17日
「ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は、文選のあはれなる卷々、白氏の文集、老子のことば、南華の篇。此の國の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなる事多かり。」
―『徒然草』第十三段。
"Hemingway says somewhere that the good writer competes only with the dead."
―ある作家のエッセイにある文。「somewhere」という辺りが、やや心許ないが。
……約7世紀と16段ほど出遅れてしまった……。
―『徒然草』第十三段。
"Hemingway says somewhere that the good writer competes only with the dead."
―ある作家のエッセイにある文。「somewhere」という辺りが、やや心許ないが。
いずれも昔の人の文章に対して向き合うことを述べている。前者は「読み手」として、後者は「書き手」としてではあるが。
但し、この作家はこんなことも書いている。今度は自身について述べたもの。
"And I have been fortunate to escape what has been called 'that form of snobbery which can accept the Literature of Entertainment in the Past, but only the Literature of Enlightenment in the Present.'"
これも良くある話である。歌舞音曲も然り、落語や仮名草子やMANGA(ポンチ絵)にも通ずるかも知れない。それにしても「snobbery」とは、なかなか皮肉な表現だ。なんとなくこの皮肉屋ぶりは、芥川とも似たような印象を受ける。ちなみに漱石の場合、「皮肉屋」というより「へそ曲がり」の方が的確だろう。
第三十段 ― 2021年10月20日
またもや近隣の国が恒例のデモンストレーションを行ったようだ。
個人的には、なんだか「政治的な兵器アピール」というより「経済的な商品アピール」といったような感じがする。とにかく外貨獲得の手段が極端に限られているし、何と言っても商品単価の桁が違う。
…まぁ、あくまでも素人のぼんやりとした印象に過ぎないが。
個人的には、なんだか「政治的な兵器アピール」というより「経済的な商品アピール」といったような感じがする。とにかく外貨獲得の手段が極端に限られているし、何と言っても商品単価の桁が違う。
…まぁ、あくまでも素人のぼんやりとした印象に過ぎないが。