第二十四段 ― 2021年10月12日
廢物利用
廢物利用とは、一旦用に立てゝ、其のまゝにては、もはや、用ひ難き品、又は、通例は、使ひ途なしと見なさるゝ物をば、工夫して、用に立つるをいふ。
ふと考ふれば、襤褸(ボロ)などは、何の用にも立たぬよーに見ゆれど、其の實、西洋紙などの原料も、襤褸(ボロ)なれば、美しき絨毯(ジュータン)も、まゝ、手織物の襤褸(ボロ)より作らる。又、瓦斯(ガス)會社にて、石炭を蒸せば、油の如き黒き汁流れ出づ。これも、ふと見れば、何の用にも立たぬよーなれど、それを利用すれば、種々の藥品、又は、染料などを得べし。
牛、馬の骨と言へば、卑しきものゝ譬にも引けど、之れを利用すれば、櫛(クシ)、楊枝(ヨージ)などを作るべし。其の他、蜂の巣よりは、蝋を製すべく、縁の下の古土よりは、火藥の原料を得べし。要するに、藥品、砂糖、染料、肥料等のうちには、廢物より採れるもの少からず。
凡そ、天地間の物に、全くの無用物はあるべからず。廢物と見ゆるものも、其の實は、人智の及ばざる邊に、用あるべし。まして、現に、使ひ途のある品は、決して、濫用し、浪費すべからず。
「用ひ難き」は原文ママ。前出の『國語讀本 高等小學校用』所収。
明治に於けるSDGs教育のテクスト(刊行は明治33年)。江戸文化を継承・発展させたものとも言える。「ぜいたくは素敵だ」…じゃなくて「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」ということか。この言葉は両刃のヤイバ…じゃなくてツルギである。時の権力者の都合の良いように使われた歴史的な実例がある。この言葉よりは、2004年度ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが使用した「モッタイナイ」の方がシンプルで無難と思われる。
廢物利用とは、一旦用に立てゝ、其のまゝにては、もはや、用ひ難き品、又は、通例は、使ひ途なしと見なさるゝ物をば、工夫して、用に立つるをいふ。
ふと考ふれば、襤褸(ボロ)などは、何の用にも立たぬよーに見ゆれど、其の實、西洋紙などの原料も、襤褸(ボロ)なれば、美しき絨毯(ジュータン)も、まゝ、手織物の襤褸(ボロ)より作らる。又、瓦斯(ガス)會社にて、石炭を蒸せば、油の如き黒き汁流れ出づ。これも、ふと見れば、何の用にも立たぬよーなれど、それを利用すれば、種々の藥品、又は、染料などを得べし。
牛、馬の骨と言へば、卑しきものゝ譬にも引けど、之れを利用すれば、櫛(クシ)、楊枝(ヨージ)などを作るべし。其の他、蜂の巣よりは、蝋を製すべく、縁の下の古土よりは、火藥の原料を得べし。要するに、藥品、砂糖、染料、肥料等のうちには、廢物より採れるもの少からず。
凡そ、天地間の物に、全くの無用物はあるべからず。廢物と見ゆるものも、其の實は、人智の及ばざる邊に、用あるべし。まして、現に、使ひ途のある品は、決して、濫用し、浪費すべからず。
「用ひ難き」は原文ママ。前出の『國語讀本 高等小學校用』所収。
明治に於けるSDGs教育のテクスト(刊行は明治33年)。江戸文化を継承・発展させたものとも言える。「ぜいたくは素敵だ」…じゃなくて「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」ということか。この言葉は両刃のヤイバ…じゃなくてツルギである。時の権力者の都合の良いように使われた歴史的な実例がある。この言葉よりは、2004年度ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが使用した「モッタイナイ」の方がシンプルで無難と思われる。
それにしても、長音記号の使い方が現在から見れば聊か奇妙である(特に「国語教育の教材」として執筆されたものと考えると)。やはり表記法の原則自体が確立されていなかったのか。