第二十三段 ― 2021年10月11日
領主の新衣(上)
昔或國の領主に着物道樂の殿樣があった。夥しく、着物を仕立てさせて、一日に、幾度も幾度も着換へ、氣に入ったのがあれば、それを着て、馬で、城下を乘り廻り、町のものに見せびらかすのを、何よりの樂みとせられた。
或時、外國から、二人の不思議な織師が來た。噂によれば、其の織師が、織り出す品は、地質や模樣が、類もなく立派なはいふまでもなく、不思議なことには、愚かな者か、乃至は、心のよこしまな、おのが役目に不忠實な者が見ると、地も模樣も、まるで見えぬ、との事。此の靈妙な織物の噂、早くも、領主の耳に入り、「それは稀代な。早速、いひつけて、織らせい。」との命令。二人の織師は、承って、先づ、原料として、精選の生糸と、純金とを、夥しく請ひ受け、機織場まで、新たに建てゝ、二臺の大じかけの機械を据ゑて、そこに、閉ぢこもって、織り始めた。
五六日もたつと、領主は、「もう、よほど織れたであらう。樣子がみたいな。」と思はれたが、「待てよ、常の織物とちがふ。行って見て、萬一、見えなんだら、領主たる身の大恥辱。まづ、ともかくも、誰れかをやってためさせた上。」と、家來の三太夫(サンダユー)といふに言ひつけて、樣子を見に遣はされた。
三太夫は、早速、機織場に出張した。二人は、一心に織ってゐる樣子なれど、不思議や、機ばかりで、織物は見えぬ。これは、どうぢゃとあきれて、挨拶もえせでゐると、織師は、ふりかへり、「どうでござります、この模樣は、殿樣の御氣に入りませうか。」といふ。三太夫の目には、その模樣とやらが、ちっとも見えぬが、見えぬ、といつては、心のよこしまな不忠者、乃至、馬鹿者と思はれては大變、と思ひ、「いや、至極結構。」と、出たらめをいった。
織師は、尚ほも、機を指し、こゝの模樣がしかじか、そこの色合がしかじか、と自慢して、説明する。三太夫には、何も見えねど、一々、その言葉だけを覺えて、歸った。領主は、俟ちかねてゐて、「どうぢゃ。」と問はれる。三太夫は、覺えてきた通りを、一々上申した。
領主は、かうなると、毎日毎日、待ち遠でならぬ。そこで、取りかへ引きかへ、近侍の者を、樣子見に遣はされる。誰れの目にも、織物は見えぬ。しかし、見えぬといっては、愚人又は不忠者と見做される恐れがある故、いづれも、見えるふりで、織師の説明を聞いて歸って、そのまゝを上申する。
とかくするうち、織物出來たとのことで、織師は、殿の着丈まで伺って、仕立て上げ、吉日を選んで、いよいよ上納といふ運びになった。
領主の新衣(下)
その日は、家臣一同、殘らず、大廣間に出仕して、左右に居列び、領主は、正座に、威儀を正して座られた。やがて、織師は、白木の臺を、恭しく捧げて、午前に据ゑた。「畏れながら、お誂への召物、即ち、これに。」といって、頻りに、開き展べる躰をするが、殿の目にも、誰れの目にも、何にも見えぬ。就中、殿は、ぎょっとせられた。考へて見れば、領主たる職務を盡さなんだこともある。多少、不信實なことをした覺えもある。そのせいで見えぬ、と思ったが、態と、さあらぬ躰で、「見事見事、御苦勞であった。」といはれた。
やがて、ともかくも、御着用といふ事になって、「これが御襦袢(ジュバン)、これが御下着、これが御上着。」と、織師は、一々、殿に着せかけたが、不思議や、殿の目にも、家臣の目にも、やはち、何も見えぬ。家臣のうちには、奇怪なことゝ思ふものもあったが、見えぬといっては、不忠ものとならうゆゑ、「御見事御見事、よく似合ひまする。」と、口々にほめる。皆がほめる故、どうやら、裸身の樣な氣持はすれど、殿も、とうとう釣りこまれ、立派に着飾った了見になり、幸ひ、その日は、大祭日ゆゑ、この新禮服にて、市内を巡行しよう、と申し出だされ、織師どもには、莫大な賞金を與へられた。
市内でも、とうから、この禮服の評判が高かった故、どんな立派な召物であらうかと、通り筋には、市内の男女が、黒山の樣に集って、行列を待ちうけた。やゝあって、領主は、馬上で、家臣數十人つれて、しづしづと、ねってゆく。しかし、誰の目にも、立派な禮服は見えぬ。さては、我々は、愚人ゆゑに見えぬか、と思ふ老人もあれば、おれが惡人ゆゑぢゃ、と、ひそかに恥ぢてゐるものもあったが、誰れも誰れも、口に出して、見えぬ、とはいひ得ぬ。「お見事ぢゃ。」「立派ぢゃ。」「珍らしい。」と、よい加減の事をいってゐた。
そのうちに、子供等が、かけてきた。この行列を見るとそのまゝ、「やー、をかしいをかしい。殿樣が、裸で、馬にのってゐる。をかしいな、をかしいな。」と、聲を揃へ、手をたゝいて、さわいだ。此の無邪氣の一言に、數萬の市民が、始めて、我れにかへって、「いかにも、裸だ。丸裸だ。」といふ聲が、だんだん、だんだんに高くなって、遂に、數萬人が、一時に、どっと、ふき出した。
殿も、家臣も、今更に、はっと心づき、さては、織師の惡者にだまされたのではないか、と、急ぎ、館へはせ歸って、「織師を呼び出せ。」とのゝしったが、もう遲い。惡者の織師は、とうに逃げ去って、影もなかった。
『國語讀本 高等小學校用』(1900年刊)坪内雄藏著より。
昔或國の領主に着物道樂の殿樣があった。夥しく、着物を仕立てさせて、一日に、幾度も幾度も着換へ、氣に入ったのがあれば、それを着て、馬で、城下を乘り廻り、町のものに見せびらかすのを、何よりの樂みとせられた。
或時、外國から、二人の不思議な織師が來た。噂によれば、其の織師が、織り出す品は、地質や模樣が、類もなく立派なはいふまでもなく、不思議なことには、愚かな者か、乃至は、心のよこしまな、おのが役目に不忠實な者が見ると、地も模樣も、まるで見えぬ、との事。此の靈妙な織物の噂、早くも、領主の耳に入り、「それは稀代な。早速、いひつけて、織らせい。」との命令。二人の織師は、承って、先づ、原料として、精選の生糸と、純金とを、夥しく請ひ受け、機織場まで、新たに建てゝ、二臺の大じかけの機械を据ゑて、そこに、閉ぢこもって、織り始めた。
五六日もたつと、領主は、「もう、よほど織れたであらう。樣子がみたいな。」と思はれたが、「待てよ、常の織物とちがふ。行って見て、萬一、見えなんだら、領主たる身の大恥辱。まづ、ともかくも、誰れかをやってためさせた上。」と、家來の三太夫(サンダユー)といふに言ひつけて、樣子を見に遣はされた。
三太夫は、早速、機織場に出張した。二人は、一心に織ってゐる樣子なれど、不思議や、機ばかりで、織物は見えぬ。これは、どうぢゃとあきれて、挨拶もえせでゐると、織師は、ふりかへり、「どうでござります、この模樣は、殿樣の御氣に入りませうか。」といふ。三太夫の目には、その模樣とやらが、ちっとも見えぬが、見えぬ、といつては、心のよこしまな不忠者、乃至、馬鹿者と思はれては大變、と思ひ、「いや、至極結構。」と、出たらめをいった。
織師は、尚ほも、機を指し、こゝの模樣がしかじか、そこの色合がしかじか、と自慢して、説明する。三太夫には、何も見えねど、一々、その言葉だけを覺えて、歸った。領主は、俟ちかねてゐて、「どうぢゃ。」と問はれる。三太夫は、覺えてきた通りを、一々上申した。
領主は、かうなると、毎日毎日、待ち遠でならぬ。そこで、取りかへ引きかへ、近侍の者を、樣子見に遣はされる。誰れの目にも、織物は見えぬ。しかし、見えぬといっては、愚人又は不忠者と見做される恐れがある故、いづれも、見えるふりで、織師の説明を聞いて歸って、そのまゝを上申する。
とかくするうち、織物出來たとのことで、織師は、殿の着丈まで伺って、仕立て上げ、吉日を選んで、いよいよ上納といふ運びになった。
領主の新衣(下)
その日は、家臣一同、殘らず、大廣間に出仕して、左右に居列び、領主は、正座に、威儀を正して座られた。やがて、織師は、白木の臺を、恭しく捧げて、午前に据ゑた。「畏れながら、お誂への召物、即ち、これに。」といって、頻りに、開き展べる躰をするが、殿の目にも、誰れの目にも、何にも見えぬ。就中、殿は、ぎょっとせられた。考へて見れば、領主たる職務を盡さなんだこともある。多少、不信實なことをした覺えもある。そのせいで見えぬ、と思ったが、態と、さあらぬ躰で、「見事見事、御苦勞であった。」といはれた。
やがて、ともかくも、御着用といふ事になって、「これが御襦袢(ジュバン)、これが御下着、これが御上着。」と、織師は、一々、殿に着せかけたが、不思議や、殿の目にも、家臣の目にも、やはち、何も見えぬ。家臣のうちには、奇怪なことゝ思ふものもあったが、見えぬといっては、不忠ものとならうゆゑ、「御見事御見事、よく似合ひまする。」と、口々にほめる。皆がほめる故、どうやら、裸身の樣な氣持はすれど、殿も、とうとう釣りこまれ、立派に着飾った了見になり、幸ひ、その日は、大祭日ゆゑ、この新禮服にて、市内を巡行しよう、と申し出だされ、織師どもには、莫大な賞金を與へられた。
市内でも、とうから、この禮服の評判が高かった故、どんな立派な召物であらうかと、通り筋には、市内の男女が、黒山の樣に集って、行列を待ちうけた。やゝあって、領主は、馬上で、家臣數十人つれて、しづしづと、ねってゆく。しかし、誰の目にも、立派な禮服は見えぬ。さては、我々は、愚人ゆゑに見えぬか、と思ふ老人もあれば、おれが惡人ゆゑぢゃ、と、ひそかに恥ぢてゐるものもあったが、誰れも誰れも、口に出して、見えぬ、とはいひ得ぬ。「お見事ぢゃ。」「立派ぢゃ。」「珍らしい。」と、よい加減の事をいってゐた。
そのうちに、子供等が、かけてきた。この行列を見るとそのまゝ、「やー、をかしいをかしい。殿樣が、裸で、馬にのってゐる。をかしいな、をかしいな。」と、聲を揃へ、手をたゝいて、さわいだ。此の無邪氣の一言に、數萬の市民が、始めて、我れにかへって、「いかにも、裸だ。丸裸だ。」といふ聲が、だんだん、だんだんに高くなって、遂に、數萬人が、一時に、どっと、ふき出した。
殿も、家臣も、今更に、はっと心づき、さては、織師の惡者にだまされたのではないか、と、急ぎ、館へはせ歸って、「織師を呼び出せ。」とのゝしったが、もう遲い。惡者の織師は、とうに逃げ去って、影もなかった。
『國語讀本 高等小學校用』(1900年刊)坪内雄藏著より。
坪内逍遙が本名で編んだ教材用の本に所収。英訳版からの重訳のようである。原作は無論アンデルセンの『裸の王様』。原題は『皇帝の新しい服』で、他言語訳も概ね原題に準じているとのこと。と言うことは、この訳題の方が原題に忠実ということになる。たしかに『裸の王様』ではネタバレだ。拗音が小書きだったり、促音が大小入り混じったりしているが、当時の表記法そのものが大雑把だったのかも知れない。と言うより口語体の表記法が未確定で模索中だったのかも。収録している作品(?)も、文語体のものと口語体のものが併存しているようだ。まあ、印刷の都合という可能性もあるが。