ヘラクレスの十二の課役 10(附・迷亭)2022年05月13日

(一四)ゲリオネウスの牛

 ヘラクレスがアマゾン国から帰って、女王ヒポリタの帯を献(けん)じると、息を吐(つ)く暇もなく、エウリステウスは、直ぐに第十番目の仕事を彼に命じた。
 西方の海中にエリチヤという神秘の島がある。この島にはゲリオネウスという巨人が住んで、赤色(せきしょく)の牛を牧(か)っている。このゲリオネウスは、英雄ペルセウスがメヅーサの首を斬った時、その血から生れたという巨人クリサオルの子で、三個(みっつ)の頭(かしら)、三個(みっつ)の胴、六本の手、六本の足及び三対(つい)の翼を有(も)った怪物で、その牛をオルトロスという両頭の番犬とエウリチオンという牛飼(うしかい)の男に見張りをさせて置く。このゲリオネウスの牛を曳(ひ)いて来ることが、ヘラクレスの課せられた仕事であった。
 ヘラクレスはクレテの島で出発の支度をして、先ず対岸のリビヤに渡り、阿弗利加(アフリカ)の岸に沿(そ)うて大西洋の岸へ達し、爰(ここ)でその遠征の紀念(きねん)として二個(ふたつ)の柱を立てた。「ヘラクレスの柱」と呼ばれて、今でもジブラルタルの海峡の両岸(りょうがん)に立っている。アビラ、カルペの両山(りょうざん)が、即ちこの遠征の紀念柱(きねんちゅう)だと伝えられる。
 この時ヘラクレスは、熱帯の沙漠(さばく)で、頭(あたま)の上から焼けるような日に照りつけられて、余りの腹立たしさに、太陽を目がけて弓を彎(ひ)こうとした。日(ひ)の神アポロンは天上から、この有様を見て、つくづくその不敵な勇気に感服して、彼の無礼をも咎(とが)めず、自分がいつも西の海から東の海へ乗って行く船で、エリチヤまで送り届けた。エリチヤの島へ上(あが)るや否や、ヘラクレスは一撃の下(もと)に番犬と牛飼の男を殺し、折(おり)から巨人の加勢に来たヘラの女神にも、一矢(いっし)を射掛(いか)けて、美事(みごと)にその胸を射抜(いぬ)いた上、怪物ゲリオネウスをも射殺(いころ)して、眩(まぶ)しいような赤色(せきしょく)の牛を船へ乗せて、イベリヤの地へ引返(ひきかえ)した。
 イベリヤからは陸路(りくろ)イタリヤへ入(はい)ったが、アヴェンチヌスの岡へ差掛(さしかか)った時、この岡の麓(ふもと)にある洞(ほら)の中に、カクスという巨人が住んでいて、ヘラクレスが眠った暇(ひま)に、二三匹の牛を偸(ぬす)んで行った。併(しか)しカクスは牛の足跡を晦(くら)ますために、尾を曳(ひ)いて後退(あとじさ)りに洞の中へ運んで行ったので、ヘラクレスは眼を覚(さま)してから、驚いてその足跡をつけて見たが、更(さら)に行方(ゆくえ)が知れなかった。彼は終(つい)に尋ね倦(あぐ)ねて、残りの牛を曳(ひ)きながら洞の前を通って行くと、不図(ふと)洞の中から牛の鳴声(なきごえ)が聞えたので、初めてその所在が分り、洞に入ってカクスを殺し、牛を取戻(とりもど)して、前進を続けた。
 けれどもヘラの女神は、或(あるい)は虻(あぶ)を送って牛を走らせたり、或(あるい)は洪水を起して路を塞いだりして、その進路を妨(さまた)げた。下(しも)イタリヤのレギウムへ来ると、一匹の牛は急に海中へ跳込(とびこ)んで、シチリヤの島へ上って行ったので、ヘラクレスは余儀(よぎ)なく牛の角へ取着(とりつ)いて、自分も跡を追って海峡を渡った。それからアドリヤ海に沿うて、イリリヤ、エピロスを通り、トラキヤを廻って、終(つい)にギリシヤへ帰って来た。
 こんな苦心を積んで持って来たゲリオネウスの牛を、エウリステウスは犠牲としてヘラクレスの敵のヘラの女神に供(そな)えたと伝えられる。


『吾輩は猫である 六』より。

(前略)「然(しか)し土用中(どようぢゆう)あんなに涼しくつて、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「ほんとで御座いますよ。先達中(せんだつてぢゆう)は単衣(ひとへ)では寒い位で御座いましたのに、一昨日(をとゝひ)から急に暑くなりましてね」「蟹なら横に這ふ所だが今年の気候はあとびさりをするんですよ。倒行(たうかう)して逆施(げきし)す又可(またか)ならずやと云ふ様(やう)な事を言つてゐるかも知れない」「なんで御座んす、それは」「いえ、何でもないのです。どうも此(この)気候の逆戻りをする所は丸でハーキュリスの牛ですよ」と図に乗つて愈(いよいよ)変ちきりんな事を言ふと、果(はた)せるかな細君は分らない。然し最前の倒行して逆施すで少々懲(こ)りて居(ゐ)るから、今度は只「へえー」と云つたのみで問ひ返さなかつた。之(これ)を問ひ返されないと迷亭は折角(せつかく)持ち出した甲斐(かひ)がない。「奥さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんは」「御存じないですか、一寸(ちよつと)講釈をしませうか」と云ふと細君も夫(それ)には及びませんとも言ひ兼ねたものだから「えゝ」と云つた。「昔(むか)しハーキュリスが牛を引つ張つて来たんです」「そのハーキュリスと云ふのは牛飼(うしかひ)でゞも御座んすか」「牛飼ぢやありませんよ。牛飼やいろはの亭主ぢやありません。其節(そのせつ)は希臘(ギリシヤ)にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「あら希臘の御話しなの? そんなら、さう仰(お)つしやればいゝのに」と細君は希臘と云ふ国名丈(だけ)は心得て居(ゐ)る。「だつてハーキュリスぢやありませんか」「ハーキュリスなら希臘なんですか」「えゝハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「どうりで、知らないと思ひました。それで其(その)男がどうしたんで――」「其男がね奥さん見た様(やう)に眠くなつてぐうぐう寐(ね)て居(ゐ)る――」「あらいやだ」「寐て居る間(ま)に、ヴァルカンの子が来ましてね」「ヴァルカンて何です」「ヴァルカンは鍛冶屋(かぢや)ですよ。此(この)鍛冶屋のせがれが其(その)牛を盗んだんでさあ。所がね。牛の尻尾を持つてぐいぐい引いて行つたもんだからハーキュリスが眼を覚(さ)まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らない筈でさあ。牛の足跡をつけたつて前の方へあるかして連れて行つたんぢやありませんもの、後ろへ後ろへと引きずつて行つたんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来(おほでき)ですよ」と迷亭先生は既に天気の話は忘れて入(い)る。(後略)


・補足。
「いろは」と言うのは当時の有名な肉料理のチェイン店だそうだ。
言うまでもなく「ハーキュリス」は「ヘラクレス」の英語名。1960年代『マイティ・ハーキュリー』という米国製5分間TVアニメがあった。
クリスティーの名探偵(の一人)「エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot)」のファースト・ネームもこれに基く。彼が主人公の『ヘラクレスの冒険(The Labours of Hercules)』と言う連作短篇集もある。そのままのタイトルだが。